2055年のわたくし

同僚と昼飯を食っている時に「自分が80歳になったとき、何をしているか」という話題になった。
そこにいたる前段のお話は「いざ自分の時間がふいにできても、自分の会社も仕事も関係ない友達って会える?」というものだった。お互い良い年にもなったので、その日には難しい事がほとんどだ。そもそも疎遠になってたりすると連絡する手段さえ無かったりするし、なんか理由も無く「飯食おうぜ」とか感情的に言いにくい。
で、結局ひとり飲みするかなんやかんやで適当な時間を過ごす事になる。

そんなところから、実際年とったら仕事の繫がりって日常では無くなるけど、何をして過ごしているんだろうか、という話題になった。そこからさらに発展して、「あと40年も経つと日本は人口減少社会を迎えてるから、近状の年寄りはみんな亡くなってて、その結果周りも空き家が増えて静かになって、人が減ることで住宅の需要が下がり、土地価格は下落。結果として戸建てが増えて行くんじゃないのか。今の我々世代がマンションを売って相続した実家に戻る、というのもこの辺ならありそうだよね」というような話にもなった。

そこで広がる妄想。
こんな未来には、
きっと日々の買い物は自分で行って買うというスタイルではなく、スーパーマーケットは高級品の店(成城石井とかさ)だけが人員をそろえ、今と同じようなスタイルだが、よりラグジュアリーなサービス(食材に対する個別レシピ相談や健康相談等)を提供するようになるだろう。

じゃあ今と同じような一般大衆向けのスーバーはどうなるか。そもそも需要が減少する中で固定費が高い人が消えていくだろうね。あとは、老いてくれば買い物もしんどいからデリバリになるかもしれない。店舗はいわば倉庫になり、機械を介した販売形態になるだろう。
今みたいに客が回遊して欲しいものをピックアップし・・・というのは一定の来店者が期待できるから効率がいいわけで、もし来場者が減って行けば、倉庫化してしまったほうが、在庫の適正化、商品に対するいたずらや万引き(カジュアルな窃盗)の防止の観点からメリットが高いと思うのです。

買い物は店頭、もしくはネットのECサイト・アプリで注文する。もちろんマルチデバイス対応だ。注文が走れば、バックヤードでパッケージし、注文客の来店を待つか、デリバリの準備になる。
客が望んだタイミングでモノが出る。レジで待たされる事もない。

私が80歳になるのは2055年。
こんな先はまったく想像はつかないのだけれど、人口推計では一億人を割っている。(内閣府:平成27年版高齢社会白書(全体版)  )感覚的には普段目にする人の量が今の2/3になる感じだろうか。また高齢化も加速しているので、さらに目に入ってくる人の姿は高齢な方が増えてくる感じなのだろうね。今でも昼間外歩いてるのはわりとお年を召された方が目につくけども。
いろいろと今よりも便利な世の中になってるだろうけど、車が空を飛ばない程度には便利になっていて、建築様式も法律が変わらない限りは今と大差ないのではないだろうか。
人口減少の影で介護はおそらく事実上の崩壊をするだろう。大衆にとって手の届かないコスト感になっていると想像する。移民は皮算用レベルで終息し、少ないなり手を維持する為に、収入・待遇は向上されることだろう。
その結果、個人の活動をサポートするデバイスが登場し、肉体の衰えは機械がカバーする世界になると思う。ギリギリまで自分で活動できる世界。その機械の為に労働をし続ける事にもなるとは思うのだが。

そんな未来を妄想している。